「社長~、もう少し安くして~」という保科有里さんのお願いに、困った表情で値下げを承諾する夢グループの石田重廣社長。
独特のイントネーションと親しみやすい雰囲気で知られていますが、若い頃は甲子園を目指していた野球少年だったことをご存じでしょうか。
石田重廣社長は、ダルビッシュ有投手などを輩出した宮城県の野球強豪校・東北高校で野球部に所属していました。
2026年8月2日に出演したラジオ番組では、高校時代に豪速球投手として知られていたという話を振られ、自ら「口だけでしたね」と振り返っています。(日刊スポーツ)
現在の穏やかな姿からは想像しにくい、熱血高校球児としての一面があったようです。
今回は、石田重廣社長の若い頃や東北高校野球部時代の秘話、野球の道を断念して夢グループを築くまでの経歴について調査しました。
石田重廣の若い頃は運動が得意な野球少年だった

石田重廣社長は、1958年に福島県福島市で生まれました。
父親は福島県庁に勤務する公務員、母親は専業主婦で、姉と弟がいる3人きょうだいの中で育ったとされています。
両親は教育熱心で、石田社長は福島大学附属小学校に進学しました。
しかし、本人が過去のインタビューで語ったところによると、小学生の頃は勉強があまり得意ではなく、発音にも苦手な部分があったそうです。
一方で、体格に恵まれ、運動は得意でした。中学生になると勉強にも力を入れるようになり、成績が上がっていったといいます。(週刊女性PRIME)
意外なことに、中学時代の石田社長が最初に憧れたのは、プロ野球選手ではなく歌手でした。
当時人気を集めていたオーディション番組「スター誕生!」の予選に応募し、クラスメートに歌手になると宣言したこともあったそうです。
ところが、予選ではわずか数秒歌ったところで止められ、不合格となってしまいました。
石田社長は最初、自分が特別に評価されて歌唱を止められたと思い込んでいたそうです。
しかし、実際には予選に落ちていたことを知り、恥ずかしい思いをしたと振り返っています。(週刊女性PRIME)
現在、通販CMやコンサートのステージで堂々と歌う姿を見ると、若い頃から人前に立つことへの憧れを持っていたことが分かります。
歌手への道をいったん断念した石田社長が、次に本気で目指したのが野球選手でした。
練習相手がいないときには、団地の壁に向かって一人でボールを投げるなど、地道に練習を続けていたといいます。
石田重廣は東北高校野球部で甲子園を目指していた

石田重廣社長は中学校卒業後、福島県の実家を離れ、宮城県仙台市にある東北高校へ進学しました。
東北高校といえば、全国的に知られる高校野球の強豪校です。
後年にはダルビッシュ有投手も同校の野球部で活躍しています。
石田社長とダルビッシュ投手が在籍した時期は重なっていませんが、石田社長は東北高校野球部の大先輩にあたります。
石田社長は両親の反対を押し切って親元を離れ、甲子園出場を目標に東北高校野球部へ入部しました。(週刊女性PRIME)
2026年8月2日に放送された文化放送の番組では、パーソナリティーの生島ヒロシさんから「豪速球で鳴らしたそうですね」と高校時代の投球について質問されました。
この情報は、宮城県出身で石田社長と旧知の間柄だという衆議院議員・小野寺五典さんから聞いたものだったそうです。
ただし、石田社長本人は豪速球投手だったという話を否定。
大きな声で「ワオーッ!」と叫びながら投げていたため、周囲には速い球が来ると思わせていたものの、実際のボールは「フワ~」としていたと笑いながら説明しています。
これに対し、夢グループのCMで共演する保科有里さんから「社長、ダメじゃん」と突っ込まれていました。(日刊スポーツ)
石田社長らしいユーモアを交えた発言ですが、本当に野球への思いが強かったことは、これまでの言動からも伝わってきます。
2024年5月には、楽天モバイルパーク宮城で行われた楽天対ロッテ戦の始球式に登場しました。
投球は左にそれてワンバウンドとなり、石田社長はマウンドが滑ることを忘れていたとして、悔しさを口にしています。
60代になっても自分の投球結果を悔しがる姿から、若い頃に甲子園を目指した高校球児としての気持ちは、今も残っているのでしょう。(パ・リーグ.com)
野球部の活動休止で甲子園への夢を断念

石田重廣社長の高校野球生活は、順調に続いたわけではありませんでした。
石田社長が東北高校に在籍していた当時、他の部員が起こした不祥事の影響で、野球部が対外試合を行えない状況になったと報じられています。
甲子園を目指して福島県から宮城県へ進学した石田社長にとって、試合に出られなくなることは非常に大きな出来事だったはずです。
野球を続ける目標を失った石田社長は、最終的に東北高校を自主退学しました。(日刊スポーツ)
歌手を目指したオーディションに続き、野球選手になるという夢も思わぬ形で断念することになったのです。
その後は大学進学を目指して予備校に通いましたが、受験料として用意していた現金を紛失する出来事があり、大学受験も断念したといいます。(週刊女性PRIME)
若い頃の石田社長は、何度も進路変更を余儀なくされました。
それでも挫折したまま立ち止まるのではなく、働きながら社会経験を積み、やがて事業の世界へ進んでいきます。
30歳頃には中国や香港から商品を輸入して販売する通販会社「ユーコー」を設立。
2003年には、現在の夢グループにつながる芸能プロダクションを立ち上げました。(日刊スポーツ)
夢グループは現在、通信販売だけでなく、コンサートの企画や芸能プロダクション事業なども手がけています。
公式サイトによると、会社は2003年2月に設立され、石田重廣社長が代表取締役を務めています。(夢グループ)
石田社長は、東北高校で学んだ練習への取り組み方や考え方が、社会に出てからも役立ったと語っています。
野球選手になる夢はかなわなかったものの、高校野球で経験した厳しい練習や挫折が、その後の経営者人生を支える土台になったのかもしれません。
また、石田社長と東北高校とのつながりは現在も続いています。
2025年には学校側から声がかかり、東北高校の理事に就任。
2026年3月には選抜高校野球大会が行われた甲子園球場を訪れ、母校の試合をアルプススタンドから応援しました。
高校を自主退学してから長い年月がたち、母校を支える立場で甲子園に戻ったことになります。
石田社長は、現役の生徒たちから「社長」と声をかけられたことを喜び、名門野球部の再建に期待を寄せていました。(日刊スポーツ)
まとめ
今回は、夢グループ・石田重廣社長の若い頃や、東北高校野球部時代の秘話について紹介しました。
石田社長は福島県福島市で育ち、子どもの頃から運動が得意だったようです。
中学時代には歌手に憧れてオーディションを受けましたが、不合格となった後は野球選手を目指すようになりました。
両親の反対を押し切り、野球の強豪校である東北高校へ進学。
投手として甲子園を目指していましたが、野球部の活動が制限されたことから夢を断念し、学校も自主退学しています。
ラジオ番組では、高校時代の投球について「口だけでしたね」とユーモアを交えて話していました。
しかし、一人で壁当てを続け、親元を離れて強豪校へ進学した経歴を見ると、野球に本気で取り組んでいたことは間違いないでしょう。
歌手、野球選手、大学進学と、若い頃に何度も挫折を経験した石田社長。
それでも新しい道を探し続けた行動力が、現在の夢グループにつながっています。
高校時代に甲子園へ出場する夢は実現しませんでしたが、現在は東北高校の理事として母校を支えています。
親しみやすい通販CMの裏には、失敗を笑いに変えながら前進してきた、石田重廣社長のたくましい人生がありました。
それでは、ありがとうございました!

コメント