関西の放送界に大きな足跡を残した放送作家でタレントの新野新(にいの・あらた)さんが、2025年9月25日、大阪市内の病院で老衰のため亡くなりました。
享年90歳。
1950年代から放送作家として活動を始め、後にはラジオやテレビで“顔”としても活躍した新野さんは、笑福亭鶴瓶さんとの深夜ラジオ番組『つるべ・新野のぬかるみの世界』で一躍有名となり、独自の存在感で多くの人に親しまれました。
今回はその90年の人生と業績を振り返ります。
そこで今回は、
新野新さんの放送作家としての出発と関西メディア界での活躍
新野新さんのタレント活動と著作による文化的貢献
弟子たちから慕われた“優しい師匠”
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
新野新さんの放送作家としての出発と関西メディア界での活躍

新野新さんは1958年に早稲田大学を卒業し、北野劇場で演出助手を務めた後、創成期の民放テレビにおいて放送作家として頭角を現しました。
関西の笑いと放送文化を背景に、数々の人気番組を支えた存在として知られ、次第に自らも表舞台に立つようになります。
特にラジオ大阪で放送された『つるべ・新野のぬかるみの世界』は、鶴瓶さんとともに深夜ラジオに新風を吹き込みました。
当時の放送は型破りで自由奔放、時には過激ながらもユーモアと温かさにあふれ、多くの若者に支持されました。
この番組は「深夜ラジオに革命を起こした」と評され、今も語り継がれる伝説となっています。
新野新さんのタレント活動と著作による文化的貢献

放送作家としての活動に加え、新野新さんはタレントとしても数多くの番組に出演しました。
ABCテレビ『晴れ時々たかじん』や読売テレビ『今夜なに色?』などでその存在感を発揮し、ユーモアと知性を併せ持つ“語り手”として人気を博しました。
また、著作活動にも意欲的で、『上方タレント101人』『笑ほど素敵な商売はない』『父のくしゃみ』『雲の別れ 面影のミヤコ蝶々』などを執筆。関西の放送界や芸能文化を多角的に描き出しました。
さらに、卒寿を迎えた2025年6月には、自身の半生を振り返りながら大阪放送界の歴史をまとめた『小バラ色の人生 新野新で語る大阪放送界史』を刊行。
晩年に至るまで“文化の語り部”として筆を執り続けました。
弟子たちから慕われた“優しい師匠”

新野新さんは仕事だけでなく人柄においても、多くの人から慕われました。
3番弟子で京都光華女子短期大学教授の鹿島我さんは「とことん優しく、面倒見のいい師匠でした」と語り、深い感謝の思いを寄せています。
新野新さんの周囲には、弟子や後輩、共演者が絶えず集まり、その優しさと温かい指導は次世代の放送人を育てる大きな力となりました。
葬儀・告別式は近親者のみで行われ、すでに生前にお別れの会を済ませていたため、今後の公の追悼の予定はありません。
しかし、弟子や関係者の証言を通じて、その人柄と功績が改めて広く伝えられています。
まとめ
新野新さんは、放送作家としてもタレントとしても大阪放送界を支え続けた存在でした。
『ぬかるみの世界』で見せた自由で革新的な放送姿勢は、ラジオ文化に新しい可能性を示し、その後の放送界にも大きな影響を残しました。
著作や番組を通じて残された足跡はもちろんのこと、弟子たちや共演者に向けられた優しさと面倒見の良さは、何よりも新野さんを語る上で欠かせない魅力です。
90年の生涯を閉じた新野新さんですが、その精神と功績はこれからも語り継がれていくでしょう。
それでは、ありがとうございました!
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