日本テレビの元アナウンサーで、現在は日テレ学院の学院長を務めていた多昌博志(たしょう・ひろし)さんが、2026年4月7日、多発肝腫瘍のため63歳で亡くなられたことが報じられました。
先月26日まで元気に勤務されていた中での急逝。
あまりにも早すぎるお別れに、放送界からも悲しみの声が広がっています。
本記事では、プロ野球やサッカーW杯、さらには伝説のバラエティ番組まで、多昌さんが私たちに届けてくれた「忘れられない言葉」と、その輝かしい足跡を振り返ります。
そこで今回は、
多昌博志さん死去で振り返る巨人黄金時代を見守ったスポーツ実況の雄
多昌博志さん死去で振り返る、歴史の目撃者として
多昌博志さん死去で振り返る:『電波少年』の感動ゴールから教育の道へ
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入ってきましょう。
多昌博志さん死去で振り返る巨人黄金時代を見守ったスポーツ実況の雄

1985年に日本テレビに入社した多昌博志さんは、スポーツ中継の第一線で活躍しました。
特にプロ野球ファンにとって、多昌博志さんの実況は記憶に深く刻まれています。
1989年、巨人・斉藤雅樹投手の「11試合連続完投勝利」という金字塔や、1993年の「ゴジラ」こと松井秀喜選手のプロ初ホームランの瞬間を伝えたのは多昌博志さんでした。
さらに、2000年の日本シリーズ、長嶋茂雄監督と王貞治監督による伝説の「ON対決」第2戦での実況は、まさに野球史の1ページを象徴する仕事でした。
冷静でありながら熱のこもった語り口は、お茶の間にスタジアムの興奮をそのまま届けてくれました。
多昌博志さん死去で振り返る、歴史の目撃者として

多昌さんの活躍は野球にとどまりませんでした。
1991年の世界陸上東京大会。男子走り幅跳びでマイク・パウエルがカール・ルイスを破り、8メートル95の世界新記録を打ち立てたあの瞬間、マイクを握っていたのも多昌博志さんです。
また、2002年の日韓共催W杯準決勝「ドイツ対韓国」戦の実況では、歴代3位となる世帯平均視聴率48.3%という驚異的な数字を記録。
さらには箱根駅伝での1号車実況など、国民が注目する「ここ一番」の場面には、いつも彼の信頼感あふれる声がありました。
多昌博志さん死去で振り返る:『電波少年』の感動ゴールから教育の道へ

多昌博志さんの多才さを物語るのが、伝説の番組『進め!電波少年』での仕事です。
朋友(パンヤオ)によるアフリカ・ヨーロッパ大陸横断ヒッチハイクのゴール実況を担当し、バラエティの枠を超えたドキュメンタリーとしての感動を茶の間に伝えました。
2003年以降はアナウンス職を離れ、経営の要職を歴任。
近年は日テレ学院の学院長として、次世代の「声のプロ」を育てる教育者としても尽力されていました。
先月まで教壇に立ち、後進を育成し続けていたその情熱は、多くの教え子たちの中に生き続けています。
まとめ
63歳の誕生日を病床で迎え、そのわずか6日後に旅立たれた多昌博志さん。
スポーツ、ニュース、バラエティ。どのジャンルにおいても、多昌さんの実況は常に「主役であるアスリートや出演者へのリスペクト」に満ちていました。
私たちが心に刻んでいる名シーンの数々は、多昌さんの声があってこそ、より鮮明な記憶として残っているのかもしれません。
多昌博志さんのこれまでのご功績に敬意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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