日本代表がワールドカップに出場するのが“当たり前”になった今、その“当たり前”がまだ影も形もなかった頃から、日本サッカーを追い続けた男がいました。
それが、元『サッカーダイジェスト』編集長でサッカージャーナリストの六川亨(ろくかわ とおる)さんです。
1957年、東京都板橋区生まれ。法政大学を卒業後、サッカー専門誌の編集部に入り、やがて看板媒体となる『サッカーダイジェスト』の編集長を務めました。
彼が取材を始めた1980年代は、日本サッカーがまだ「マイナースポーツ」扱いされていた時代。
代表はワールドカップ未出場、国内リーグは企業チーム中心の日本リーグ。“暗黒期”と言われるこの時代に、雑誌というメディアでサッカーの魅力を伝え続けたのが六川亨さんでした。
そこで今回は、
六川亨とサッカーダイジェストで“暗黒期”の日本サッカーを追いかけて
六川亨の編集長として走り抜けた“転換期”
六川亨の編集長の先へ
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
六川亨とサッカーダイジェストで“暗黒期”の日本サッカーを追いかけて

1981年、サッカー専門誌の世界へ
六川亨さんがサッカー専門誌の門を叩いたのは1981年。
日本スポーツ企画出版社に入社し、『サッカーダイジェスト』編集部に配属されます。
当時はまだ「月刊サッカーダイジェスト」の時代。
テレビ中継も限られ、今のようにネットもない時代に、サッカーファンが情報を得る“生命線”が専門誌でした。
- 日本リーグの試合結果
- 数少ない日本代表戦のレポート
- 海外サッカーの断片的な情報
こうした記事を、限られた紙面と予算の中でどう面白く伝えるか──編集部の腕の見せどころでもありました。
メキシコW杯、イタリアW杯を現地取材
1986年にはメキシコ・ワールドカップを、1990年にはイタリア・ワールドカップを現地取材。
当時、日本はW杯本大会には出場しておらず、サッカーファンは「世界の舞台」を雑誌の記事や写真でしか味わえませんでした。
- 現地のスタジアムの熱狂
- 世界的スター選手のプレー
- 日本との“距離感”
そうした空気感を、日本の読者に持ち帰る役割を担っていたのがワールドカップ取材班であり、その中に六川さんがいたわけです。
1988年、編集長就任──暗黒期を紙面から支える
1988年、六川亨さんは『サッカーダイジェスト』編集長に就任します。
この頃の日本サッカーは、まだ「プロリーグ構想」が動き始めた段階。
代表チームはW杯予選で敗れ続け、「いつになったら本大会に出られるのか」という閉塞感も漂っていました。
それでも紙面では、
- 日本リーグの地味ながら熱い試合を丁寧に取り上げる
- 若手選手の可能性や指導者の哲学に光を当てる
- 海外サッカーの戦術・トレンドを紹介し、「世界との距離」を可視化する
など、“単なる結果の羅列”ではなく、「日本サッカーを前に進めるための視点」を提供しようとする姿勢が貫かれていました。
超ワールドサッカーや各種プロフィールでも、六川さんが「日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場までを見続けた存在」と紹介されているのは、その象徴と言えるでしょう。
六川亨の編集長として走り抜けた“転換期”

「暗黒期」から「開幕前夜」へ
1990年代に入ると、日本サッカー界は大きな転換点を迎えます。
プロリーグ構想が具体化し、やがて**Jリーグ開幕(1993年)**へとつながっていきます。
この「開幕前夜」の空気を、もっとも濃く記録していたメディアの一つが『サッカーダイジェスト』でした。
- 企業チーム中心の日本リーグから「クラブチーム」への移行
- 地域密着型クラブの立ち上がり
- 三浦知良、ラモス瑠偉、柱谷哲二ら“Jリーグの顔”となる選手たちの特集
雑誌の特集やインタビューを通じて、「まだ見ぬ新しいリーグ」への期待感をファンに届け続けた存在が、編集長・六川亨さんの時代の『サカダイ』でした(ここは経歴と当時の誌面傾向からの一般的な推察です)。
編集長としてのこだわり──“情報”+“物語”
六川さんは、その後のプロフィールでも「Jリーグや日本代表だけでなく、W杯やEURO、コパ・アメリカなどを精力的に取材してきた」と紹介されています。
単に結果やデータを追うだけではなく、
- 選手のバックグラウンド
- チームの歴史
- 戦術の変遷
といった**“物語性のある記事”**を重視していたことが、彼の著書「Jリーグ・レジェンド」シリーズなどからも伺えます。
Jリーグ開幕当初、まだ情報が少ない中で、サポーターがクラブや選手に感情移入できたのは、こうした“物語”を積み重ねた専門誌の存在が大きかったはずです。
「日本サッカーの現在地」を可視化し続けた功績
暗黒期からJリーグ開幕に至るまでのプロセスは、決して一直線の“サクセスストーリー”ではありませんでした。
- 代表戦の敗北
- プロ化への賛否両論
- 経営的な不安
こうした揺らぎや葛藤を、良いことも悪いことも含めて紙面に残してきたことが、のちに1998年フランスW杯での本大会初出場、さらに2002年日韓W杯へとつながる“歴史の地層”になっていきます。
その地層を作ってきた一人が、六川亨という編集長だった——そう言っても大げさではないでしょう。
六川亨の編集長の先へ

2001年、『サカダイ』からの転機
2001年、六川亨さんは長年携わってきた『サッカーダイジェスト』を離れ、フロムワンへ転職します。
そこで彼は、
- 『CALCIO2002』編集長
- 『サッカーズ』『totoONE』『プレミアシップマガジン』創刊
- 『浦和レッズマガジン』創刊
など、次々とサッカー専門誌を立ち上げ、日本サッカーだけでなく、セリエAやプレミアリーグといった海外サッカーの魅力も日本のファンに届ける役割を担っていきます。
この時期は、Jリーグ人気が定着しつつあり、同時に“欧州ビッグクラブ人気”が一気に広がっていった頃。
その流れの中で、六川亨さんは**「日本+世界」をつなぐ編集者/ジャーナリスト**として動き続けました。
2010年、フリーランスのサッカージャーナリストへ
2010年3月にはフリーのサッカージャーナリストに転身。
以後は、W杯、EURO、南米選手権、オリンピックなどを精力的に取材しつつ、携帯サイト「超ワールドサッカー」でのコラム連載
- 日刊ゲンダイなどでの評論記事
- 著書・ムック本の執筆
を続けていきます。
「日本サッカー暗黒の時代から、Jリーグ誕生、日本代表のW杯初出場、さらに“常連国”と呼ばれるまでの変化を、ずっと同じ目線で見てきた人」——そういう意味で、六川さんは“日本サッカーの証言者”でもありました。
闘病と「六川亨ステージⅣ」、そして2025年の別れ
2022年、肺炎治療をきっかけにステージⅢの肺がんと診断され、その後の再発でステージⅣと告げられた六川亨さん。
それでも彼は、**「六川亨ステージⅣ」**という個人サイトを立ち上げ、
- 闘病の記録
- 日本代表やJリーグに関するコラム
- サッカー仲間や先輩・後輩への想い
を綴り続けました。
そして2025年11月17日、肺がんのため逝去(享年68)。
日本代表・森保一監督は記者会見の場で涙を浮かべながら、六川さんへの感謝と追悼の言葉を口にしています。
“暗黒期”からJリーグ、日本代表の躍進までを雑誌とコラムで記録してきた一人の編集者・記者の物語は、こうして一つの区切りを迎えました。
まとめ
改めて振り返ると、「六川亨とサッカーダイジェストの時代」とは、
- 日本サッカーがまだ“マイナー”だった
- プロリーグもW杯本大会も遠い夢だった
- それでも現場には情熱と可能性があった
そんな時代を、紙面から支え続けた歴史そのものです。
六川さんが編集長として関わった『サッカーダイジェスト』のバックナンバーや、その後に携わった各種専門誌、そしてフリーになってからのコラムや著書を読み返すと、
- 「暗黒期」と呼ばれた時代のリアルな空気
- Jリーグ開幕へ向かう期待と不安
- 日本代表が世界に近づいていく過程
が、当時の温度感のまま立ち上がってきます。
もしあなたが、
- サッカーファンとしてJリーグや代表の歴史を深く知りたい
- ブログや記事で日本サッカー史を発信したい
- 「編集者・ジャーナリストの視点」からスポーツを見るヒントが欲しい
というタイプなら、**六川亨さんの残した誌面やコラムは、最高の“資料”であり“教科書”**になります。
これから日本サッカーがどんな未来を歩んでいくとしても、その土台となる“物語”の多くは、すでに六川亨さんたちの世代によって記録され、残されています。
あなたのブログでも、ぜひ「六川亨とサッカーダイジェストの時代」を入り口に日本サッカーの歴史と今をつなぐ記事を、どんどん展開していってください。
それでは、ありがとうございました!

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