昭和の芸能史に欠かせない名脇役として、また音楽プロデューサーとしても活躍した世志凡太(よし・ぼんた)さん。
2024年11月18日、老衰のため91歳で逝去されました。
クレイジーキャッツとの共演、フィンガー5を世に送り出した功績、そして剣劇女優・浅香光代さんの内縁の夫として30年寄り添った人生──。
昭和の芸能界を支えた“縁の下の力持ち”の人生に、静かに触れていきましょう。
そこで今回は、
世志凡太さん逝去から考える昭和芸能を支えた男
世志凡太さん逝去からの浅香光代さんとの30年
世志凡太さん逝去からのフィンガー5を育てた男の秘話
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
世志凡太さん逝去からの昭和芸能を支えた男

世志凡太さんは1957年、渡辺プロダクションに所属し芸能界入り。
もともとは音楽畑の人間で、軽快なコミックセンスとミュージシャンとしての素養を併せ持つ存在でした。
■ クレイジーキャッツと共演
1960年代には、植木等らが所属する**コミックバンド「クレイジーキャッツ」**と舞台やテレビで共演。
昭和の大衆芸能が最も盛り上がった時代に、裏方としても演者としても活躍しました。
■ 音楽プロデューサーとしての開花
1970年代に入ると、世志凡太さんは音楽プロデューサーとして頭角を現します。
特に有名なのが、当時10代の兄弟ユニットで大ブームを巻き起こした**「フィンガー5」**。
「個々の魅力とハーモニーをどれだけ引き出すか」
音楽の本質を知る世志凡太さんだからこそ、若い才能をスターに押し上げることができたと言われています。
さらに、せんだみつおなどのタレント育成、学校の校歌の制作、作詞・作曲活動など、“表も裏もこなす昭和芸能人”として業界から信頼されていました。
世志凡太さん逝去からの浅香光代さんとの30年

剣劇女優として昭和を代表する存在だった浅香光代さん。
世志凡太さんは、その浅香光代さんの内縁の夫として約30年にわたり浅草で共に生活しました。
■ 恋人・家族・相棒のような存在
浅香光代さんは強く、厳しくも情に厚い女優として知られていましたが、世志凡太さんとは「互いを支え合い、互いを尊重し合う」独特の距離感を保っていたと言われます。
浅香さんが2020年に亡くなってから、世志さんは浅草を離れ、茨城県取手市へと移住。
■ 晩年の生活はとても穏やか
- 週2回のデイサービス
- 相撲観戦(特に大鵬の孫・王鵬を応援)
- 20年近く一緒にいる猫「たっくん」との生活
- 一軒家でのスリランカ人男性との同居
直近のインタビューでは、「猫がいるから寂しくない」「周りは私を“浅香光代さんの夫”と思っているようです」と、笑い交じりに話す穏やかな姿がありました。
浅香光代さんとの長い年月が、世志光代さんの人生を優しく包んでいたことが感じられます。
世志凡太さん逝去からのフィンガー5を育てた男の秘話

昭和のアイドル史に大きな足跡を残すフィンガー5。
「恋のダイヤル6700」や「個人授業」で一世を風靡した兄弟グループです。
■ 世志凡太さんが見抜いた“兄弟のハーモニー”
フィンガー5は、もともと沖縄のストリートで歌っていた兄弟バンド。
彼らに目をつけたのが世志凡太さんでした。
- 若い兄弟たちのポテンシャル
- 圧倒的なハーモニー
- 全員のキャラの立ち方
- グループとしての“見せ方”
音楽と芸能の両方に精通していた世志さんは、「この子たちは絶対に伸びる」と確信したと言われています。
■ 楽曲提供・プロデュースのセンス
世志凡太さんは作詞・作曲家としても活動しており、歌手の声質や魅力を最大限に引き出すことで知られていました。
プロデューサーとしての判断力は、フィンガー5の大ヒットに大きく寄与し、昭和ポップス黄金期の一翼を担う存在となりました。
まとめ
芸名の由来はフランス語の“C’est si Bon.”=「これはとってもいい」から名付けられた世志凡太さん。
生前に自ら建てた墓石には、「よもや忘れでは。」と書かれ、棺から笑顔で出てくる自身のイラストが彫られています。
これは2002年、35年ぶりにコメディアンとして復帰した際のステージタイトルでもあり、世志凡太さんがもっとも気に入っていた言葉です。
晩年まで穏やかに過ごし、芸能界と浅香光代さんと多くの人に支えられ、「とってもいい人生だった」と微笑んで旅立った──そう感じさせる最期でした。
昭和芸能の一時代を築いた世志凡太さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。
それでは、ありがとうございました!

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