広瀬叔功の野球殿堂入りの軌跡!南海の三悪人が語る笑いと友情の時代!

プロ野球界に数々の名選手が誕生する中で、「俊足」と「天才的な感覚」で観る者を魅了した男がいました。


その名は広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さん。

通算596盗塁、盗塁成功率82.9%という驚異的な記録を残し、南海ホークスの黄金時代を築いた伝説的選手です。


2025年11月、惜しくも89歳でその生涯に幕を下ろした広瀬さん。

彼が残した功績、そして野村克也・杉浦忠と共に過ごした“笑いと友情”の時代を振り返ります。

そこで今回は、

広瀬叔功の野球殿堂入りした天才と呼ばれた男の誕生

広瀬叔功の野球殿堂入りした南海の三悪人

広瀬叔功の野球殿堂への道

3つの観点から迫っていきます。

それでは、早速本題に入っていきましょう。

目次

広瀬叔功の野球殿堂入りした天才と呼ばれた男の誕生

1936年、広島県大野町(現・廿日市市)に生まれた広瀬叔功さん


高校卒業後、1955年に投手として南海ホークスにテスト入団しましたが、1年目で右肘を痛めます。

そこで彼は俊足を生かすべく野手に転向。これが野球史を変える転機でした。

プロ初打席から6打席連続安打を放つという離れ業。


当時チームメートだった野村克也さんは、後に「彼は努力の天才ではなく、感覚の天才だった」と語っています。


その後、遊撃手としてレギュラーをつかみ、59年の日本シリーズ制覇に貢献。強肩ながらも送球が乱れる場面も多く、61年途中から中堅手へ。

そこから5年連続盗塁王の快進撃が始まりました

練習嫌いで素振りもしない――そんな一面がありながら、試合では勝負勘と瞬発力で結果を出す。


それこそが、広瀬叔功という“天才肌”の魅力でした。


広瀬叔功の野球殿堂入りした南海の三悪人

広瀬叔功さんが活躍した南海ホークスは、まさに黄金時代を迎えていました


エースの杉浦忠、名捕手・野村克也、そして俊足の広瀬叔功。

3人はいつも行動を共にし、チームメートから「南海の三悪人」と呼ばれていたほどの仲良しトリオです。

日本シリーズの最中でも銀座で飲み歩くなど、破天荒で愉快なエピソードが多く残されています。


「スギやんは静かにモテて、ノムやんは口説き魔。ワシはガバガバ飲んで酔っぱらってた(笑)」と、後年の広瀬叔功さんが笑って語る姿は、まるで青春映画のよう。


門限を破った際には、塀を乗り越えて仲間を中に入れたという豪快な逸話も。

彼らの絆は、単なるチームメートではなく、戦友そのものでした。


“勝ちたい”という情熱、そして“仲間を信じる”心――それが南海の強さの原動力だったのです。


広瀬叔功の野球殿堂への道

チームのためにならないことはしない」――広瀬叔功さんの座右の銘でした


勝負を決める走塁は常に初球で。

後続打者が打撃に集中できるよう、無駄な盗塁は一切しなかったといいます。


64年には打率4割目前まで迫り、最終的に3割6分6厘で初の首位打者に輝きました。


さらに当時のプロ野球記録となる31連続盗塁成功を成し遂げるなど、その走塁哲学は今なお語り継がれています。

現役引退後は、1978年から3年間、南海の監督としてチームを率い、後進の育成にも尽力


1999年、これまでの功績が認められ、野球殿堂入りを果たしました


晩年は故郷・広島に戻り、地元体育協会の会長として地域スポーツの発展にも貢献。


“走ること”と“人を育てること”を生涯貫いた姿は、まさに本物のプロ野球人でした。


【まとめ】笑顔とスピードで駆け抜けた生涯

広瀬叔功さんの人生は、ただ速く走るだけではありませんでした。


仲間を信じ、チームのために走り、そして笑いの絶えない日々を送った――それが彼の真骨頂です。

野村克也、杉浦忠という盟友と共に築いた南海の黄金期。


そして、89歳での旅立ちまで、その姿勢は一貫して“チームのため”でした。

広瀬叔功――その名はこれからも、野球ファンの心に走り続けることでしょう。

それでは、ありがとうございました!

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