日本女子マラソン界の歴史に名を刻む有森裕子さん。
1992年のバルセロナオリンピックで銀メダル、1996年のアトランタオリンピックで銅メダルを獲得し、その名を世界に轟かせました。
特に「自分で自分を褒めたい」という名言は、多くの人々の心に残り、いまなお語り継がれています。
特に「自分で自分を褒めたい」という名言は、多くの人々の心に残り、いまなお語り継がれています。
今回は、有森裕子さんの若い頃にスポットを当て、どのようにして逆境を力に変え、世界の舞台に立つアスリートへと成長していったのかを詳しく辿っていきます。
そこで今回は、
中学・高校時代の悔しさと挑戦
大学時代から社会人の際の小出監督との出会い
オリンピック直前の葛藤と世界での躍進
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
中学・高校時代の悔しさと挑戦

有森裕子さんは1966年、岡山県に生まれました。
幼い頃から活発で、走ることが得意だった彼女は、中学時代に陸上部へ入部。そこで長距離走の楽しさと厳しさを知ります。
地方大会では入賞することもありましたが、全国大会の壁は高く、思うような結果を出せない日々が続きました。
高校は岡山県立興陽高校へ進学。
長距離ランナーとして地道に練習を重ねましたが、当時の成績は決して目立つものではありません。
インターハイや全国高校駅伝の常連になるような強豪校の選手と比べると、むしろ「無名」に近い存在でした。
本人も「自分は平凡な選手」と感じることが多く、進路や将来に悩むこともあったといいます。
それでも、地道な努力を積み重ねる姿勢は一貫して変わりませんでした。
この粘り強さが後の飛躍につながる大きな基盤となっていきます。
大学時代から社会人の際の小出監督との出会い

高校卒業後、有森さんは日本体育大学に進学。
陸上競技部に所属し、より本格的なトレーニングを積むようになります。
大学時代も全国大会で優勝するような目立った結果は出せませんでしたが、卒業後に実業団へ進み、競技を続ける道を選びました。
しかし、社会人ランナーとして迎えた現実は厳しく、成績は思うように伸びません。
同期の選手たちが次々と日本代表に選ばれる中、自分だけが取り残されているような焦燥感に襲われ、一時は「もう辞めようか」と考えたほどでした。
そんな中で転機となったのが、小出義雄監督との出会いです。
小出監督は「走ることは才能だけではない。努力と工夫で必ず結果は出る」と説き、有森さんに徹底的に基礎から走りを見直させました。
たとえばフォームの改善、ペース配分の徹底、さらには練習後の食事管理に至るまで細かく指導。
時に厳しい言葉を投げかけながらも、「お前には絶対にできる」と信じ続けて励まし続けました。
この信頼関係が有森さんの心を支え、諦めかけていた競技人生に再び火を灯すことになります。
オリンピック直前の葛藤と世界での躍進

1991年、有森裕子さんは日本選手権で結果を残し、1992年のバルセロナオリンピック女子マラソン代表に選出されます。
しかし代表入りが決まった後も、不安や重圧に押し潰されそうな日々が続きました。
「本当に自分で大丈夫なのか」という疑念と、国を背負う責任感。オリンピック直前の合宿では涙を流すこともあったといいます。
小出監督はそんな有森さんに「最後まで自分を信じて走れ。結果はついてくる」と声をかけ続けました。
その言葉に背中を押され、迎えたバルセロナ五輪。
猛暑の中、懸命に走り抜いた彼女は見事に銀メダルを獲得。
無名に近かった存在が、一気に世界のトップランナーへと躍り出ました。
さらに1996年のアトランタオリンピックでは、レース直前に足の不調を抱えるなど困難がありましたが、懸命に走り抜いて銅メダルを獲得。
レース後に語った「自分で自分を褒めたい」という言葉は、挫折と努力を重ねてきた彼女だからこそ心から絞り出せたものだったのです。
まとめ
有森裕子さんの若い頃は、華やかな勝利とは無縁の「挫折」の連続でした。
中学・高校時代は全国で注目される存在ではなく、大学・実業団でも記録は伸び悩み、引退を考えた時期さえありました。
しかし、小出義雄監督との出会いが大きな転機となり、諦めずに努力を続けた結果、オリンピックで2大会連続のメダル獲得という快挙を成し遂げます。
「才能よりも努力」「諦めなければ未来は変わる」――有森さんの歩みは、アスリートだけでなく、人生に挑み続けるすべての人に勇気を与えてくれる物語です。
彼女の若き日の挫折と飛躍は、いまも多くの人々の心を照らし続けています。
それでは、ありがとうございました!
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