2026年5月2日、元日本テレビアナウンサーで皇室ジャーナリストとして知られた久能靖(くのう・やすし)さんが、老衰のため90歳で亡くなりました。
久能靖さんは1936年2月13日生まれ。東京大学文学部を卒業後、1960年に日本テレビへ入社し、アナウンサー、報道記者、ニュースキャスターとして昭和から平成にかけて数々の歴史的瞬間を伝えてきました。(オリコンニュース(ORICON NEWS))
特に有名なのが、1972年の「あさま山荘事件」での約9時間に及ぶ実況中継です。
さらにその後は『皇室日記』などで皇室報道に携わり、フリー転向後も皇族方の素顔や戦後の皇室の歩みを伝え続けました。(日刊スポーツ)
一方、訃報をきっかけに「久能靖の妻は誰?」「子供はいる?」「なぜ長野県と縁が深かったの?」と家族や晩年について検索する人も増えています。
そこで今回は、
久能靖さんと「あさま山荘事件」の知られざる関係
皇室ジャーナリストとして歩んだ経歴
妻や子供、信州との深い縁
という3つの観点から、2026年現在確認できる最新情報を交えて詳しく見ていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
久能靖の死因は老衰!90歳で亡くなる

久能靖さんが亡くなったのは、2026年5月2日です。
報道によると、死因は老衰で、横浜市内の施設で90歳の生涯を閉じました。
葬儀は親族のみで執り行われています。(オリコンニュース(ORICON NEWS))
久能さんは亡くなるまで長年にわたってジャーナリストとして活動してきた人物です。
2023年には昭和館のオーラルヒストリーにも登場し、戦争体験からあさま山荘事件、昭和天皇の崩御、皇室取材まで、自らが目撃してきた昭和の歴史を証言していました。(昭和館)
90歳での訃報となりましたが、その人生はまさに日本のテレビ報道の歴史と重なっていたといえるでしょう。
久能靖と「あさま山荘事件」!9時間実況が人生の転機に
久能靖さんの名前を一躍全国に知らしめたのが、1972年2月に長野県軽井沢町で起きた「あさま山荘事件」です。
久能さんは当時、日本テレビのアナウンサーとして現場に派遣されました。
警察が山荘へ突入した2月28日には、極寒の現場から約9時間にわたって実況中継を担当しています。(ライブドアニュース)
長時間その場を離れることもできず、喉が渇くと周囲の雪を口に含みながら実況を続けたという壮絶な状況だったことも、2026年の追悼記事で改めて紹介されました。(ライブドアニュース)
しかし久能さん自身は、この実況を単純な「成功体験」とは捉えていませんでした。
事件後、目の前で起きていることは伝えられたものの、事件の背景まで十分に理解して報じることができなかったのではないか、と自問したといいます。
その経験から、
「アナウンサーにも自分自身で取材する力が必要だ」
と考え、報道部への異動を志願しました。(ライブドアニュース)
1972年に報道記者へ転身すると、警視庁や労働省、自治省、文部省、自民党、国会などを担当。
「あさま山荘事件」は久能さんを有名にしただけではなく、“伝える人”から“自ら調べて伝える人”へ変わるきっかけになった出来事だったのです。(株式会社グローバル)
さらに久能さんは、事件から長い年月がたった後も取材を続けました。
関係者100人以上を訪ね歩いて事件を検証し、2000年には『浅間山荘事件の真実』を出版しています。(ライブドアニュース)
一度報じて終わるのではなく、時間をかけて「本当は何が起きていたのか」を追い続ける姿勢こそ、久能靖さんのジャーナリストとしての原点だったのでしょう。
久能靖は皇室ジャーナリストとして17年間『皇室日記』に出演
久能靖さんは1990年に日本テレビを退社し、フリージャーナリストとなりました。
その後も『午後は○○おもいッきりテレビ』や『ザ・ワイド』などでニュースキャスターとして活躍しています。(日刊スポーツ)
そして、久能さんのもう一つの大きな顔となったのが「皇室ジャーナリスト」です。
1988年から1989年にかけて昭和天皇の病状悪化から崩御までを取材し、特別番組のキャスターを務めた経験などを経て、皇室報道に深く携わるようになりました。(日刊スポーツ)
1992年からは『皇室グラフィティ』、後の『皇室日記』でキャスターを担当。
前身番組を含め、約17年間にわたって皇室のニュースを伝えました。(日刊スポーツ)
久能さんの皇室報道の特徴は、単に皇族方の行事を紹介するだけではなかったことです。
皇族方への単独インタビューを行ったほか、上皇さま、上皇后さまが天皇皇后両陛下だった時代には、戦後60年、70年の節目となるサイパンやパラオへの「慰霊の旅」にも同行して現地取材を行いました。(日刊スポーツ)
また、皇室文化を陰で支える人々にも目を向け、古文書の修復などに携わる裏方まで丁寧に取材していたと振り返られています。(ライブドアニュース)
華やかな部分だけでなく「現場へ行き、自分の目で見て伝える」という姿勢は、あさま山荘事件から晩年の皇室取材まで一貫していたのです。
久能靖の妻は元宝塚・久美かおる!子供はいた?
久能靖さんの家族についても見ていきましょう。
元記事では「妻や子供について詳しい情報は公表されていない」としていましたが、2026年5月の追悼記事では家族について具体的な情報が紹介されています。
久能靖さんは1979年、43歳の時に、宝塚歌劇団で「久美かおる」の芸名で活動していた10歳年下の久美子さんと結婚しました。(ライブドアニュース)
そして同記事によると、夫婦に子供はいなかったとされています。(ライブドアニュース)
久能さん夫妻の関係をうかがわせるエピソードも、訃報後に明らかになりました。
長年交流があった元日本テレビリポーターの嵯峨聖子さんは、久能さんの訃報を受けて妻の久美子さんに電話した際、最期の様子を聞いたことをブログで紹介しています。
それによると、久能さんは周囲への言葉を残し、穏やかに眠りについたといいます。
また棺には、ジャーナリスト人生を象徴するようにメモ用紙と鉛筆、日本テレビの腕章や入構証が納められたそうです。(アメーバブログ(アメブロ))
日本テレビへの強い思いと、最後まで「報道人・久能靖」だったことを感じさせるエピソードですね。
久能靖と長野県の関係は?少年時代の疎開が原点
久能靖さんと長野県には、実は子どもの頃から深い縁がありました。
久能さんは1936年に生まれ、太平洋戦争中には千葉県で機銃掃射を経験。
その後、父親の知人を頼って長野県へ疎開し、そこで終戦を迎えています。(昭和館)
昭和館に残された2023年の証言映像でも、「長野県での疎開生活」「終戦の日」「恩師だった国語の先生」などについて久能さん自身が語っています。(昭和館)
つまり長野県は、単なる晩年の居住地ではなく、少年時代の戦争体験と結びついた特別な土地だったのです。
その後、久能さんは長野県に生活の拠点を移し、皇室ジャーナリストや著述家として活動を継続しました。また、テレビ信州のニュース番組『TSB NEWS 報道ゲンバ』にもコメンテーターとして出演するなど、信州のメディアとも関わりを持っていました。(ウィキペディア)
長野県飯綱町への疎開体験については、訃報後にも地域関係者から追悼の声が発信されており、久能さんと信州の長い縁が改めて注目されています。(X (formerly Twitter))
少年時代に戦争の現実を目にし、疎開先で終戦を迎えた経験。
後に報道人となり、戦争や皇室、昭和史を伝え続けた久能さんの原点の一つが、信州での少年時代にあったのかもしれません。
久能靖の学歴・経歴を振り返る
久能靖さんは神奈川県立小田原高校を経て、東京大学文学部を卒業。
1960年に日本テレビへ入社しました。(日本テレビ)
入社後はニュース部門を中心に、東大闘争、成田闘争、新宿騒乱事件、羽田闘争、あさま山荘事件、日中国交回復など、昭和を代表する大事件・歴史的出来事の現場に立っています。(株式会社グローバル)
1972年からは報道記者となり、その後ニュースキャスターへ。
1990年に日本テレビを退社してからもフリーで活動し、『皇室日記』をはじめ数々の番組へ出演しました。(日本テレビ)
また『浅間山荘事件の真実』『高円宮殿下』『知られざる皇室』『皇宮警察』など多くの著書を残しており、テレビだけでなく書籍を通しても昭和史や皇室について伝え続けました。(株式会社グローバル)
アナウンサー、記者、キャスター、皇室ジャーナリスト、著述家。
一つの肩書だけでは語り切れない幅広い活動を続けた90年間だったことが分かります。
まとめ
今回は、2026年5月2日に90歳で亡くなった久能靖さんについて、死因や経歴、妻・子供、長野県との関係まで紹介しました。
久能靖さんの死因は老衰で、横浜市内の施設で亡くなりました。葬儀は親族のみで執り行われています。(オリコンニュース(ORICON NEWS))
1972年のあさま山荘事件では約9時間に及ぶ実況中継を担当。
しかし、その経験から「自分自身で取材して伝えること」の重要性を感じ、アナウンサーから報道記者へ転身しました。(ライブドアニュース)
その後は皇室報道にも力を注ぎ、『皇室日記』の前身番組を含め約17年間キャスターを務め、上皇さま、上皇后さまの慰霊の旅なども現地から取材しました。(日刊スポーツ)
家族については、1979年に元宝塚歌劇団の「久美かおる」こと久美子さんと結婚し、子供はいなかったと報じられています。(ライブドアニュース)
そして少年時代には長野県へ疎開し、そこで終戦を経験。
後年も信州との縁を大切にしながら活動を続けました。(昭和館)
「あさま山荘事件の人」だけでも、「皇室ジャーナリスト」だけでもありません。
現場へ足を運び、自分自身の目で確かめ、視聴者に分かりやすく伝える――。
久能靖さんが長い報道人生活で守り続けた姿勢は、これからも日本のテレビ報道史の中で語り継がれていくのではないでしょうか。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
それでは、ありがとうございました!

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