大相撲九州場所で初優勝を果たし、世界から注目を浴びている安青錦(あおにしき)。
7歳で相撲と出会い、18歳で単身日本に渡り、たった13場所で関脇昇進→初優勝という異例のスピードを記録した21歳です。
背景には、ロシア侵攻によって 家族がドイツへ避難し、自身もスポーツキャリアの危機に直面しながら日本で相撲を続ける決断をした、壮絶な歩みがあります。
本記事では、最新の報道をもとに、安青錦を支え続けた “家族の存在” に焦点を当て、初優勝までの2年間を丁寧に追います。
そこで今回は、
安青錦の家族はロシア侵攻で家族はドイツへ
安青錦の山中新大さんとの絆が導いた“再出発”
安青錦の家族へ初優勝で届けた“希望と誇り”
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
安青錦の家族はロシア侵攻で家族はドイツへ

安青錦(本名:ヤブグシシン・ダニーロ)は、ウクライナ中部の都市・ビンニツァ出身。
7歳で柔道の隣で行われていた相撲を偶然見たことがきっかけで競技に打ち込み、その才能はすぐに開花します。
15歳で来日し、世界ジュニア選手権で3位入賞。
この大会で、のちに彼の人生を支えることになる 山中新大(あらた)さん と出会いました。
しかし、2022年にロシアの全面侵攻が始まり状況は激変。
ウクライナのスポーツ施設は破壊され、選手や家族は国外に避難を余儀なくされます。
彼の両親もドイツへ避難。
安青錦自身も競技人生を失いかけましたが、NHKのドキュメンタリーでこう語っています。
「相撲が好きで、続けないのはもったいないと思った」
家族と離れ、未来が見えない中でも、彼は “相撲を続ける道” を選んだのです。
安青錦の山中新大さんとの絆が導いた“再出発”

18歳で日本に渡った安青錦を最初に支えたのが、世界ジュニアで知り合った山中新大さんでした。
山中新大さんは当時、関西大学の相撲部に所属。
来日したばかりの安青錦を 自宅に住まわせ、大学の相撲部で稽古する環境を整えてあげたと報じられています。
異国で頼れる人がほとんどいない状況で、この“家族のような存在”が支えとなり、彼は再び土俵に立てるようになりました。
その後、安青錦は安治川部屋に入門し角界へ進みます。
初土俵からの 所要13場所で関脇昇進 は極めて異例。
そして九州場所では、優勝決定戦で横綱・豊昇龍を破って初優勝。
心の支えには、
・ドイツで安否のわからない日々を生きる両親
・日本で“家族”として迎えてくれた山中さん
そのすべての存在がありました。
安青錦の家族へ初優勝で届けた“希望と誇り”

ロシア侵攻後、安青錦さんの家族はドイツ・デュッセルドルフへ避難しています。
言葉も文化も違う土地で、ゼロから生活を始めなければならなかった両親にとって、息子が遠い日本で相撲に挑む決断は、心配と誇りが入り混じるものだったでしょう。
だからこそ、21歳の息子が横綱を倒して優勝を勝ち取ったニュースは、両親に“希望の光”を届けたに違いありません。
ウクライナのスポーツメディアでも大きく報じられ、「祖国の誇りだ」「進み続けてくれ」「夢のようだ」と国内外から祝福の声が相次ぎました。
そして安青錦自身は、優勝後の取材でこう語っています。
「言葉にならない気持ち。もっと上を目指したい」
家族のため、祖国のため、自分自身の未来のため。
そのすべての想いを胸に、安青錦はさらなる高みを目指しています。
まとめ
“家族”への想いが引き寄せた奇跡──21歳の初優勝が照らした未来**
今回の九州場所の優勝は、単なるスポーツの勝利ではありません。
それは、
- 戦争で離れ離れになった家族
- ドイツに避難した両親
- 日本で支えてくれた恩人
- そしてウクライナで見守る人々
すべての想いが交わった “奇跡の勝利” でした。
家族の避難、単身来日、新たな部屋での稽古、言語習得──重ねてきた苦しみと努力のすべてが、この優勝に結びつきました。
21歳の若さで横綱撃破。
そして次に見据えるのは 大関、そして横綱。
安青錦の挑戦は、家族の絆と祖国への愛を胸に、これからも続いていきます。
それでは、ありがとうございました!

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