2006年の夏――高校野球の歴史に刻まれた“ハンカチ王子フィーバー”。
早稲田実業のエース・斎藤佑樹投手が見せた熱投と青いタオルハンカチのシーンは、瞬く間に全国の話題をさらいました。
しかし、その裏側には「普通の高校生活」とはかけ離れた異常な日々があったことをご存じでしょうか。
今回語ってくれたのは、当時の早実主将で4番・遊撃手を務めた後藤貴司氏。
19年が経った今だからこそ話せる、報道の過熱、チームの空気、そしてナインが抱えていた本音とは――。
一気に読みたくなる“あの夏の真実”を紐解きます。
そこで今回は、
チームの掲げた大きな目標
斎藤佑樹フィーバーで過熱する報道の波
斎藤佑樹フィーバーを19年後に思うこと
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
チームの掲げた大きな目標

早実のチームが掲げていたのは、もともと「王貞治先輩のために勝つ」という強い思いでした。
当時、ソフトバンクの王監督は胃がんの手術を受け入院中。
チームには直筆の手紙が届き、後藤氏をはじめ全員が「王さんに勇気を届けよう」と誓って甲子園に乗り込みました。
初戦では鶴崎工を13-1で圧倒。
注目を浴びた2回戦・大阪桐蔭戦では、1学年下の怪物スラッガー・中田翔選手との“対決”が大きな話題に。
この時点では、斎藤佑樹は「王監督の母校・早実のエースで、甘いマスクの好投手」という程度の認識でした。
ところがこの試合、斎藤佑樹は中田を4打数無安打3三振に封じる圧巻の投球。
さらに、汗を青いタオルハンカチで拭う姿がワイドショーを通じて全国に拡散。
ここから徐々に空気が変わり始めたのです。
後藤氏は当時を振り返り、こう語ります。
「最初は『斎藤』ではなく『早実』が注目されていました。でも、桐蔭戦くらいから報道が一気に“斎藤佑樹”に寄っていったのを感じました」
まさにこの瞬間から、“ハンカチ王子フィーバー”の歯車が回り始めます。
斎藤佑樹フィーバーで過熱する報道の波

斎藤佑樹の人気が爆発したのは、まさに甲子園本戦の真っ只中。
以降、準々決勝・準決勝・決勝へ進むにつれ、報道陣の数はまるで“倍々ゲーム”のように増え続けました。
その影響は、斎藤本人だけでなく、主将の後藤氏を含めた早実ナイン全員に及びます。
練習中、普段からタオルハンカチを使っていたナインにも質問が殺到。
さらに、選手の腕時計やプライベートを“アイドル的な切り口”で取り上げるメディアまで出現しました。
「正直、『騒ぎすぎじゃない?』と思いましたね。野球とは全く関係ない質問も増えていきました」
──そして、ついに“事件”が起こる。
宿舎から外出した選手たちが、張り込んでいた報道陣に囲まれ、佐々木慎一部長(現校長)が激怒。
後藤氏は当時をこう語ります。
「気軽に外を歩けない状況でした。大会後よりも、むしろ期間中の方が異様さを感じていました」
まさに、普通の高校生では経験し得ない日々。
その負担を背負いながらも、早実ナインは勝ち続けました。
斎藤佑樹フィーバーを19年後に思うこと

駒大苫小牧との決勝は、延長15回引き分けの末に再試合へ。
その激闘を制し、早実は悲願の初優勝を成し遂げます。
しかし、“フィーバー”は終わりませんでした。
むしろ、大会後の方が凄まじかったと後藤氏は言います。
登下校時、校門前には報道陣が毎日殺到。
待ち伏せ取材、追いかけ取材など、生活は完全に一変してしまいました。
それでも後藤氏は、エース・斎藤佑樹をこう評価します。
「自分の軸がしっかりしている。決めたことは曲げないタイプ」
「2年生からは感情を抑え、ポーカーフェースで大人の投球になった」
斎藤は“はじける一面”もある普通の高校生だったと言います。
しかし、マウンドでは冷静沈着で、ブレない芯を持つ選手だった――これが、主将が見た“本当の斎藤佑樹”です。
後藤氏自身は大学・社会人を経て現在は外資系生命保険会社で営業マンとして活躍。
野球から離れていても、「あの夏は今でも忘れられない特別な記憶」と語ります。
まとめ
2006年の夏――“ハンカチ王子”という現象は、ただの流行ではなく、高校野球の歴史を変えた瞬間でした。
メディアの過熱報道、異常なフィーバー、生活の激変。
その渦中で戦った選手たちが語る言葉は、今聞いても重く、そして胸に響きます。
後藤貴司氏の語る「チームの本音」は、19年が経った今だからこそ価値のある証言。
斎藤佑樹という一人の高校生を中心に、早実というチームが背負った重さと誇りが、この記事から浮かび上がってきます。
“あの夏”は確かに異様で、そして眩しかった。
甲子園のヒーローにスポットライトが当たる裏で、チーム全員が戦っていた“もう一つの物語”が、ここにあります。
それでは、ありがとうございました!

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