久米宏さんといえば、バラエティでも報道でも「言葉の選び方」と「間(ま)」で空気を変えてしまう司会者——そんな印象を持つ人が多いはずです。
では、その“久米節”はどこで育ったのでしょうか。
手がかりになるのが、早稲田大学政治経済学部での学生時代と、1967年のTBS入社です。
久米さんは早稲田政経(経済学科)を卒業し、大学では演劇サークル「劇団木霊」で活動に熱中したとされています。
ここでは「久米宏の若い頃」に焦点を当て、早稲田政経で過ごした時間が、どのようにTBS入社へつながっていったのかを、エピソード込みでたどっていきます。
そこで今回は、
久米宏の若い頃の早稲田政経へ
久米宏の若い頃の演劇サークル「劇団木霊」で磨かれた“間”と“客席感覚”
久米宏の若い頃のTBS入社への決定打
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
久米宏の若い頃の早稲田政経へ

久米宏さんは1944年7月14日生まれで、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)で生まれたとされます。
幼少期を東京都品川区北品川で過ごしたという記述もあり、早い段階から「街の空気」を肌で感じる環境があったことがうかがえます。
学歴としては、品川区立城南第二小学校、東京都立大学附属高等学校(現・東京都立桜修館中等教育学校)を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業したとまとめられています。
早稲田政経というと、政治・経済・社会への関心を持つ学生が集まりやすい場所です。
久米さんが後年、ニュースや社会テーマを扱う場で「難しいことを、わかりやすく“話の形”にして届ける」役割を担っていくことを思うと、学生時代の学びは“背景”として確かに効いていたのだろう、と想像できます。
ポイントは、久米さんが“勉強一筋”というより、次章で触れるように「演劇」に大きく振れていったところです。
知識だけでなく、伝え方・見せ方へ意識が向いた——この寄り道のような時間が、のちの強みになっていきます。
久米宏の若い頃の演劇サークル「劇団木霊」で磨かれた“間”と“客席感覚”

久米さんは大学で、演劇サークル「劇団木霊」に所属し、演劇に熱中したとされています。
ここが面白いところで、演劇は「うまく話す」以前に、相手(観客)の反応を読みながら場を運ぶ訓練の連続です。
声の張り方、沈黙の置き方、視線の配り方、間の取り方。
セリフの意味を“説明”するのではなく、観客に“届く形”に変換する。
こうした感覚は、司会やキャスターの仕事と驚くほど近い部分があります。
そして就職活動の局面で、久米さん自身が後に「学生時代、演劇活動に明け暮れ、成績が悪く、一流企業の推薦が取れなかったから」と語った、という記述があります。
ここは“自虐を交えた言い方”ではあるものの、当時の就職ルートの現実と、久米さんの気質が同時に出ている気がします。
つまり、正面から「アナウンサーになりたい!」と一直線だったというより、演劇に夢中になった自分を抱えたまま、社会へ接続する入口として放送の世界が現れた——そんな見え方です。
結果的に、ここから先の久米さんは「場を読む」「言葉を立てる」「空気を変える」方向へ一気に才能を伸ばしていきます。
早稲田政経で得た“社会の素材”と、演劇で得た“届け方”。
この2つが同時に育ったことが、久米宏という司会者の輪郭を早い段階でつくったのではないでしょうか。
久米宏の若い頃のTBS入社への決定打

久米宏さんのTBS入社前後で、よく語られるのが「赤電話」のエピソードです。
TBSのアナウンサー最終試験で、試験官の前に赤電話が置かれ「赤電話を題材に自由にしゃべってください」という課題が出た——そこで久米さんは10円玉を取り出し、実家に電話をかけ、母親と会話して終えた、と記されています。
普通なら“うまい話”を組み立てたくなる場面で、久米さんは「その場で起こること」を選んだ。この瞬発力と胆力は、まさに“後の久米宏”を予告しているように見えます。
そして1967年、早稲田大学政経学部卒業と同時にTBSへ入社したことは、所属事務所のプロフィールにも明記されています。
テレビ朝日側の経歴紹介でも、同様に「1967年、早稲田大学政経学部卒業と同時にTBSに入社」と整理されています。
Wikipedia等では「1967年4月にTBSへアナウンサー12期生として入社」とされ、入社直後に激務と極度のあがり症で体調を崩し、結核を患ったという記述もあります。
ここまでの流れをまとめると、TBS入社は“偶然の勝ち抜き”ではなく、
- 早稲田政経で社会の関心を広げ、
- 劇団木霊で表現と客席感覚を磨き、
- 赤電話の試験で「自分の型」を見せた
——という積み重ねの“到達点”だった、と言えそうです。
まとめ
久米宏さんの若い頃をたどると、「早稲田政経=知識」「演劇=表現」「赤電話=胆力」という3点が、TBS入社へ向けて一本の線になっていくのが見えてきます。
早稲田大学政治経済学部(経済学科)で学び、演劇サークル「劇団木霊」に熱中した学生時代があり、 1967年に卒業と同時にTBSへ入社した。
“話がうまい人”というより、“場をつくれる人”。
その原型は、すでに学生時代から形になっていたのかもしれません。
もしよければ次は、この続きとして 「TBS新人期→司会者として頭角→ザ・ベストテン前夜」までを同じトーンで3章構成にして書きます(タイトルも合わせて作れます)。
それでは、ありがとうございました!

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