昭和歌謡の黄金期を支え、多くの名曲を世に送り出してきた演歌歌手の 白根一男さん が、2025年10月10日、埼玉県の自宅にて89歳で逝去されました。
喀痰による気道閉塞が原因であり、日本歌手協会が12月8日に訃報を公表しました。
『次男坊鴉』『はたちの詩集』をはじめ、戦前の名曲に新しい息吹を吹き込んだカバー曲など、幅広いレパートリーで愛された白根さん。
昭和を知る世代にとって、彼の歌声は青春の記憶そのものと言っても過言ではありません。
本記事では、白根一男さんの経歴、ヒット曲、その魅力、そして晩年まで歌い続けた姿を振り返りながら、昭和歌謡をつないだ彼の人生をたどります。
そこで今回は、
白根一男さんが“元祖アイドル歌手”と呼ばれた理由
白根一男さんの紅白出場と東芝レコード移籍と黄金期の到来
白根一男さんの晩年まで歌い続けた情熱
3つの観点から迫っていきます。
それでは、早速本題に入っていきましょう。
白根一男さんが“元祖アイドル歌手”と呼ばれた理由

白根一男さんは1936年、栃木県栃木市に生まれました。
高校在学中の1952年、テイチクレコードの新人コンテストで1位を獲得し、翌1953年に 『夜霧の酒場』でレコードデビュー。
なんと学生服姿でステージに立ち、当時としては異例の若々しいイメージが大きな注目を集めました。
まだ「アイドル歌手」というジャンルが確立されていない時代。
その中で、爽やかな笑顔と清潔感あるルックス、そして伸びのある歌声で人気を獲得し、白根さんは “男性アイドル歌手のさきがけ” と呼ばれる存在になります。
大きな転機となったのが1955年、市川雷蔵主演映画の主題歌として発表された 『次男坊鴉』 です。
哀愁漂うメロディと情感豊かな歌声が共鳴し、瞬く間に全国的ヒットとなりました。続く『花の渡り鳥』も人気を集め、白根さんの名前は一気に全国区へ。
昭和30年代の歌謡界において、若い女性ファンの間で圧倒的な支持を集めた白根さん。まさに時代が求める新しい男性歌手像を体現していたのです。
白根一男さんの紅白出場と東芝レコード移籍と黄金期の到来

白根一男さんの歌手としての評価を決定づけたのが、1957年に『面影いずこ』で出場した 第8回NHK紅白歌合戦 でした。
紅白の舞台は、当時の歌手にとって大きなステータス。そのステージに立ったことで、白根さんは“国民的歌手”の地位を確実なものにします。
1959年には、創立間もない 東芝レコードへ電撃移籍。
新天地で発表された1961年の名曲が、代表曲 『はたちの詩集』 です。
この曲は若者の繊細な心の揺れを描いた歌詞が共感を呼び、幅広い世代から支持されました。
さらに注目すべきは、白根さんが戦前の名曲を積極的にカバーし、リバイバルヒットへと導いたことです。
- 『旅姿三人男』
- 『九段の母』
これらの作品は、戦前世代にとって懐かしさを呼び起こし、若い世代には新鮮に映りました。
白根さんは、こうした“世代をつなぐ歌い手”として独自の存在感を放ち続けます。
昭和の歌謡文化は、彼のような歌手の力によって、その魅力が時代を越えて継承されていったのです。
白根一男さんの晩年まで歌い続けた情熱

白根さんの活動は晩年になっても衰えることはありません。
日本歌手協会主催の 「歌謡祭」には2022年まで出場し、累計34回という記録を残しました。
80代後半でなおステージに立ち続けるその姿は、多くのファンに希望と感動を与えていました。
また、晩年のテレビ出演では、デビュー当時のシンボルでもある 学生服姿で『はたちの詩集』を歌唱する映像 が放送され、視聴者から反響が寄せられました。
歌手生活70年以上という長い年月を経てもなお、白根さんは“歌うことが自分の人生そのもの”であるかのように、最後の瞬間まで歌手であり続けました。
2025年10月10日、喀痰による気道閉塞のため自宅で静かに旅立たれましたが、その存在感は今も昭和歌謡史の中で生き続けています。
まとめ
白根一男さんは、昭和の歌謡界を象徴するだけでなく、戦前・戦後の音楽文化をつなぎ、多くの世代に歌の魅力を伝え続けた稀有な存在でした。
若手アイドルの先駆者として時代を切り開き、数々のヒット曲で大衆の心をつかみ、
晩年まで歌い続けた情熱は、多くの人の心に深く刻まれています。白根さんの歌は、これからも世代を超えて歌い継がれていくでしょう。
心よりご冥福をお祈りいたします。
それでは、ありがとうございました!

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